日本で最も有名なお茶のブランドの1つである宇治茶。宇治茶は京都府の南部に位置する宇治市周辺で製茶(加工)されているお茶です。実際の茶葉の生産は、宇治だけでなく主に関西地方全体で生産されています。宇治茶の発祥は1,200年頃と言われており、宇治は 「煎茶」「玉露」「抹茶」 の3つのお茶の製茶技術が確立した地域として知られています。実際に日本で生産されているお茶の多くは、この宇治茶で確立された製茶技術をベースとしています。現在は、被覆栽培で作られる「玉露」や「抹茶」の製茶が盛んで、どちらも日本一の生産量です。山間部では煎茶の生産も行われています。
歴史
宇治は、現在日本で多く飲まれているお茶の「煎茶」「玉露」「抹茶」の技術が確立した地域です。宇治のお茶の歴史をさっくり解説していきます。
宇治茶の始まりは鎌倉時代の1,200年頃とされています。当時、中国の宋からお茶を溶かして飲む「点茶法」が伝えられ、宇治で茶の栽培が開始されました。そして1,400年代には天皇や将軍などに献上されるほど、高級茶としてのブランドを築き上げていきました。
宇治で現在の『抹茶』の技術が確立したのは1,600年頃です。そして、その飲み方・楽しみ方を作ったのが、有名な茶人として知られる千利休です。この時代には「お茶」といえば「抹茶」というほど抹茶が位の高い人々に普及しました。
その後、江戸時代中期の1,700年代に『煎茶』の技術が、1,800年代に『玉露』の技術が宇治で確立しました。これにより当時高級であったお茶が、庶民にも大流行し、特に煎茶は「宇治製法」として全国に普及していきました。この宇治の煎茶は明治時代(1,800年代後半)にかけて日本の主な輸出品として、またたく間に世界に販売されていきました。しかしあまりにも輸出に偏ったため、国内では宇治茶は出回らなくなり、再び庶民には高級品となっしまいます。
1,900年頃には輸出が減り、庶民でも再び宇治茶を楽しむことが出来るようになります。しかし、第二次世界大戦(太平洋戦争)時の1,940年頃になると「玉露」や「抹茶」が贅沢品であると国に判断され、茶畑が田んぼや畑に転換させられていきました。結果として一時的に宇治の茶畑の面積は大きく減少していきましたが、戦後には再び茶畑は戦時中の3倍の面積にまで拡大、回復していき現在に至ります。
現在では被覆栽培(覆下栽培)という茶畑に黒い布を覆う栽培方法が
宇治茶ブランドの問題
現在でも宇治やその周辺で茶葉の生産は行われています。しかし、「宇治茶」ブランドで販売されているものの多くは宇治地域以外の関西地方で生産された茶葉も使用しています。宇治で茶葉を生産しなくとも、宇治で製茶(加工)されたものであれば「宇治茶」ブランドを使用できているのです。このブランドの定義は改善に向けて取り組みが進んでいますが、完全な宇治生産・宇治製茶の実現は、需要が多いこともあり、まだまだ出来ていません。
特徴
宇治地域で生産されている多くの茶は「抹茶」や「玉露」です。この2つはどちらも収穫前の茶畑に黒い布を覆って太陽光を遮断する「被覆栽培(覆下栽培)」という栽培方法を用いて生産されるため、4月ごろには多くの茶畑が黒く見えます。
宇治茶は「抹茶」や「玉露」はもちろん、「煎茶」においても、「量より質」を重視して生産されている。実際、機械での茶葉の収穫ではなく手摘みを行うなど、随所にそのこだわりが感じられる。またそのブランド力もあって高級茶として世界的にも知られている。
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